船たで場
引き続き、港の歴史ゾーンから。神戸港の変遷をテーマにしたゾーン。
和船の船たで場のジオラマ。出来がすばらしい。
木造船の場合、定期的に船底を粗朶で燻して、貝殻の付着や船底の腐敗を防がねばならない。この作業のことを「たでる」または「たず」と言う。広辞苑にも漢字が載っていないのでどう書くのかは不明。「薬湯などを煮立て、その湯気で、腫物や病気の箇所を蒸す」時にも使うらしい。
それにしても、船底すべてをさらすのに船を持ち上げるのにはどういう手段を用いたのであろうか。塩の干満を用いるにしても、ジオラマのスケールから2m以上の干満(瀬戸内では無理)が必要に見えるし、巨大なクレーン様のものも見あたらない。
丸木舟、古代船
小型の模型による和船の変遷を表すコーナーから。
かつては安宅船や南蛮貿易風のジャンク、西洋帆船の模型なんかもあったので、展示されていないものも多数あるらしい。今後に期待。
丸木舟に乗っているどこぞのマンガに出てくるような白黒ブチ犬がかわいい…が、この時代、こんな犬居たのだろうか?とちょっと疑問。写真ではちょっと見えにくいかも。
古代船は、宮崎県西都原古墳の船型埴輪からの復元模型。丸木舟を縦に割って底板をつけ、さらに船縁に板を立てる、と言った準構造船であり、和船の基本形がこの時にできている。
当時の船の甲板の所には、船漕ぎ用の椅子がつけられていることもあり、また順風では簡単な帆を揚げて走った。
このコーナー、模型こそ小さいものの、丁寧に作られた和船が、遣唐使船、鎌倉時代の船、遣明船、鎌倉時代の兵船、元寇の役の蒙古の軍船、江戸時代の羽賀瀬船、北国船、イサバ船、五大力(船)等時代順に並ぶ。
地味だが見応えあり。立体模型は図面よりはるかにわかりやすい。でも説明がもうちょっと欲しい。
遣唐使船
まず頭に浮かぶのが、遣唐使船と遣明船…、なぜ遣唐船じゃないのかなと素朴な疑問…。
遣唐使船は、630年から894まで、16回に渡って唐に渡った遣唐使を運ぶ船で、はじめは1隻に120人で1、2隻、最大で4隻500〜600人を乗せた。
初期は瀬戸内から朝鮮半島沿いに渡海し、山東半島から長安に向かったが、新羅との関係が悪化した後期は、瀬戸内から長崎、五島方面に出て東シナ海を横断して揚子江の河口付近(今の上海辺り)に上陸して長安に向かった。
大きさは推定で、長さが約30m、幅8.5mのジャンクに似た構造船で、釘をほとんど使わないでつくった。
実際の船型は全く推測によるものしかないが、帆櫂併用で、風上への遡航がほとんどできないため、多くの船員を必要としたであろう。
遣唐使船の模型は様々なものがあるが、ここのものは竹の編み帆(網代帆)を船の長軸に垂直に並べた2本の帆柱で揚げる。帆は屏風状に折れ畳む様だ。
船首の横置きのキャブスタンが目を引く。これが揚げ索(ハリヤード)を巻き上げるのだろう。
帆桁は発達しておらず、帆の調整は複数のシートが船尾でまとまる。風に対して繰帆に手間がかかりそう。
甲板建造物はまるで神社である。
こんな船に乗ってみたいが、応力に弱そうな船体や、低い舷縁、濡れて扱いにくい竹筵帆など、外洋に出るのは命がけだろう。
鎌倉時代の船
表示がわかりにくいがたぶん三隻とも。
『北野天神縁起』『法然上人行状絵詞』を参考にした作品。
昨年(2001年度)のNHK大河ドラマ『北条時宗』を思い出す。
この後展示されている鎌倉時代の兵船は、ほとんどボート。
この時代、明確に兵船というものはなく、船は兵の輸送手段でしかない。壇ノ浦の戦いなど特殊な場合でも、漁船に必要に応じて盾などを使っていた様だ。
遣明船
足利義満以来の遣明船。1404年〜1547年までの17次84隻が派遣される。
乗員は150〜300人。初期は兵庫の港(現神戸市)から出航し、船団は平戸・五島辺りで風待して、浙江省の寧波等に向かった。
船頭、舵取、水主なども瀬戸内周辺で雇い、船は外洋航海用の大型船を、大内氏の所領である門司(福岡県)を中心に、富田(山口県)、上関(山口県)、柳井(山口県)、尾道(広島県)、鞆(広島県)、田島(広島県)、因島(広島県)、牛窓(岡山県)の港で、500石から2500石の船を借り、改装して遣明船として用いた。艤装や荷積みはこれも大内氏所領の博多で行った。
このため兵庫商人、門司商人、博多商人などが乗船していた。
1467年の応仁の乱以降、細川氏(東軍)の主導する細川船が現れ、大内氏(西軍)が主導する大内船と対立する。このため、遣明船は幕府船、細川船は堺から土佐沖回りで、大内船は兵庫から瀬戸内回りで明に向かうようになる。1500年代には、種子島で造船されるようになり、何度か明の港で紛争を繰り返して顰蹙を買うが、最終的に大内氏に独占された。
遣明船の船形は、遅くとも15世紀には、準構造船の船底部の刳船部材を板材に置き換えた棚板造りの船が登場する。オモキ型船といわれる、船底の両角にオモキというL型の丈夫な部材を使ったもので、航(かわら)と呼ばれる縦に走る船底材に値棚、上棚の二階造りか、中棚を加えた三階造り、中棚二段の四階造りとし、この棚板を重ね継ぎして、多数の船梁(ふなばり)で補強した船体構造である。
これまで刳船の部材は専ら楠が用いられてきたが、航にはいくつかの部材が用いられ、造船を容易にし、この後の和船の基本となる。
この模型の船首部は箱状の戸立(とだて)造りで、伊勢船(いせぶね)と思われる。他に水押(みおし)造りの弁才(べざい)船、上が箱造り、下が水押作りの二形(ふたなり)船などがある。
2本の帆柱を持つ横帆船で、帆桁と転桁索で繰帆する。甲板楼(屋形)は高く、バランスは悪そう。帆の有効面積も小さい。
写真の帆は木綿帆にも見えるが、そうだとしたらかなり後期の船だろう。一般的には筵(むしろ)帆。
貿易船ではあるが、1500年代には西洋帆船も日本近くに来ている。性能的にもジャンクに見劣りしたのではなかろうか。
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